2012年12月24日

昨日の公演を振り返る(小難しい演劇論です)

12月23日にク・ビレ邸にて上演した「炎の三兄弟」について振り返ります

今回の作品は、「劇的空間」を発生させる、という郁彦演劇の根源に立ち返ることをアウトカムに製作しました。
その意味においては、成功できたと考えていいのではないか、と感じる空間になったと思います。

自分がこのような演劇観に至ったのにはルーツがあります。


● 郁彦演劇のルーツ 劇的状況


演劇の世界に最初に憧れたとき、自分の見た(正確には本で読んだ)世界は唐十郎と寺山修司でした。
そこからもっぱら唐作品に傾向。といっても唐組を見る機会はなかなかなく、実際に観劇したのはそこから派生した劇団や、アングラの匂いを引き継いだ劇団たちでした。
当時高校生の自分にはそこにあふれる詩的世界観など全く理解することはできず
ロマンあふれる凄く土臭くありながらもどこか別世界な空間と、物語は全く理解できないがそんなもの関係なく感情を揺さぶられる登場人物の喜怒哀楽に酔いしれました。

「生の舞台にはストーリーは有効な武器のひとつではあるが、必要最低条件ではない。」

これが高校の時の自分の考え。
舞台上で劇的状況をつくりだし、その状況に観客を巻き込む。
観客は、舞台上の出来事か何かを共有体験する。これがライブであり、演劇なのだと考えました。

宝塚北高校演劇科に通っていた自分が、高校で一番最初に聞いた演劇の定義というものも影響しています。


演劇に必要最低条件とは
一つの場
二つの人物
三つの目

(説明)
一つの場所で、
二人以上の人間がいて(一人だけの人間では何もことが起こらない。思い出の中だろうが、木であろうが花であろうが、何か対象があって初めて人は動き出す。演劇とはあくまで、何かと何かの関係性の中で生まれるものだという考え方)
多数の目に触れられる(この場合、多数という象徴で3という数を使っているが、実際には観客は1人でもよい)

この定義によれば、演劇は芝居でなくてもいいのだ。音楽のライブもスピーチも宴会も演劇になりうる。
これを自分は演劇的状況と呼びました。
演劇となるためには、この状況を相手の心に深く突き刺す楔が必要だ。
それが、ドラマであった。

(我が高校では演劇をドラマと訳さずにプレイであると教えられました。これも額縁を取り払うのに大きく影響を受けましたが、現在自分はプレイでありながらのドラマという解釈をとっています)

唐の作品、そしてもう一つ完璧なる衝撃を受けた銀幕遊学◎レプリカント。
レプリカントなんて、何も理解できないんです。でも、ものすごくいい。
それはなぜか。言葉にできないけれど、作り手に圧倒的なテーマやドラマが存在しているから、だと考えました。
それゆえに、その世界に浸ることに快感を覚え、またその空間に入りたいと思い、劇場に足を運んだのです


これの裏付けを桐朋学園短期大学部に進んだのち、講師の篠崎先生の言葉で補完されました。

あなたたち役者の仕事は、観客の目の前で真実を表現することではない。観客の目の前で何かしらを演じることで、観客の心の中に真実を作り出すことが仕事なんです。

リアリズムでも、抽象でも、様式でもなんでもいいのです。
観客の心の中に何かを生み出すことができれば。
だから分かりにくくてもいいのです。

しかし自分には、その根本的な部分をつくる芸術的部分が圧倒的に足りていないと感じています。
ゆえに今回は背伸びをせずに、等身大で今できる最大の課題を。
演劇でなく、演劇的な何かを利用した劇的空間の30分を作り出すという作品作りに至ったのです。


● ルーツその2 エンターテイメント

もう一つの側面があります。
大学時代、自分の能力の低さに打ちのめされた自分は、特技を生かして生き残ろうとテーマパーク俳優への道を選びます。
これが大きく影響をしています。
それまで演劇といえば、観客はその劇団ないし作家・演出家の世界感を感じに行く場所であり、面白いときもあればそうでないときもある、そういうものだと思っていました。そして演技者は作品の中の一つのコマであり、お客様に喜んでいただくことがもちろん最上なのだが、それよりもその作品世界に生きるかどうかということの方も重要視していました。というか、別々に考えていたと言った方がいいでしょう。

しかしテーマパークは、そんな大それたことを感じてお客さんは来ないのです。
楽しみたいのです。そして楽しむためにやってきてお金を払っている。
物語は成立していて当たり前、ある程度面白くて当たりまえ。つまらなかったら問題なんです。
町の定食屋へ行って、極上の味は求めなくても、まずかったら怒ります。それと同じなのです。

また、自分は若者の観客を相手にする演劇ばかりを見てきていたのですが
テーマパークにを老若男女みんな来るのです。
それに都市部に関係なく、日本中どこにでもお客さんがいるということも知りました。

これが今の作品つくりに大きく影響をしています。
当たり前のことなのですが、見に来たお客さんにはきちんと楽しんでいただきたい。

これも劇的状況をつくるということとリンクをします。


●「炎の三兄弟」を振り返って

今回の作品で取り組んだ、その他の今年のテーマ
・叫ぶに頼らない芝居つくり
・余裕とゆとりをみった表現
演技法うんぬんでなく、登場人物をそういうキャラクターとして配置することで、そこに挑まざるを得ない状況をつくり、おかげで新しい光明がかすかに感じられました。まだまだまだまだ甘ちゃんですが。

・芝居に男女の関係を入れる
少年漫画的になる自分の作品に恋とか男女愛とかいうものが全く入っていなかった郁作品に、初秋にいただいたアドバイス。鞦韆流秘聞で少し挑戦し、今回もややスパイス程度に。分からない世界を作家も演出も演者も分からないまま取り組んでもできないものはできない。いきなり深い愛情表現など高望みせずに、まずは斬りこめるところから一歩一歩進んでいこう。登場人物にそういう感情を持たせていくこと自体が大切なのだ。

・大衆演劇的要素の取り込み
せっかく旅芝居で学んでいるのに、もっと取り込んで全部自分のものにすればよい、とこれは昨年夏に大道芸で言われた言葉。どこまで一人でやる面白さに転嫁できるかという挑戦であったが、セルフ柝頭を採用。柝の音の力を再認識。

・ベタなものをかくさずにベタで攻める
青山君の表現はシャイで恥ずかしがりすぎ、とこの初秋のアドバイス。これに関して多くの側面があるのだが、開き直りの面白さは直球ど真ん中を投げ込む踏込みからしか生まれない。ベタの部分はベタに徹する。次は、芝居で見せる場所をきちんと直球を造りこんで投げ込むというステージだ。

炎の三兄弟メモ.jpg


マンガ「デラシネマ」を読んでから、作品つくりはキーワードをカードに書きならべて考えることにしている。
あのマンガはよかった。


劇的状況作品から、いつか演劇作品を創れるようになるように
来年も精進精進を重ねます。
今年最後の創作演目「炎の三兄弟」ご観劇いただきました皆様、本当にありがとうございました!!
posted by イク at 08:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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